中国大連の開発区のとある印刷工場でお勤め中の
筆者がなんとなくと言いつつもたまに本気出した
りしなくもない勢いで書いてみたりする日記。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 歴史苦手なんでちょっと省略多いけど、ご勘弁を。 満州国はご存じのように日本が作ったのだけれど、明治維新前までは島国で自己完結していた日本が、何故わざわざ現在の中国東北部にまで出てくるようになったか? これはロシアの南下政策に対する驚異を感じてのことらしい。 ロシアは冬場港が流氷で凍って船が入出港できなくなる。だからなんとしても一年中船が行き来できる凍らない港が欲しかった。そこで、19世紀中頃国内が非常に混乱していた清国に半ば強引に認めさせたアイグン条約や北京条約で清国の東北地域をロシアが入手した。これが現在のロシア沿海地方(ウラジオストクがあるところ)とかハバロフスク地方南部(黒竜江省の北)だった。この地域を外満州と呼ぶそうだが、だんだんロシアが日本に近づいて来ているというので、日本はヤバイと思ったわけだな。 欧米列強は中国のキリスト教の布教活動を進めていた。しかし熱烈な布教活動は得てして民衆の反感を買う。「外国人は出て行け」という排外的な思いが運動に発展し、義和団という秘密結社が生まれた。1900年に西太后がこの運動を支持したためこれが戦争にまで発展。しかし宣戦布告後、二ヶ月もしないうちに欧米連合軍は首都北京と紫禁城を制圧。清国の植民化はますます加速されることとなった。 この時のどさくさに紛れてロシアが満州を占領。満州は欧米連合国すべてに解放されるべきだと、これに怒った日本がついに日ロ戦争に突入(1904年)。日本は苦戦しながらも勝利し、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島(現在の遼寧省南部)の租借権と東清鉄道南部(後の南満州鉄道)の経営権を獲得。当初の主張通り満州を各国に解放していれば、その後の歴史は大きく変わったのかも知れないが、よりによって戦争をしたロシアを手を組み、満州の権益確保を進めたことから、米国の反発を招く結果となった。 満州での権益確保の過程で、日本は馬賊出身の張作霖を支援。彼は満州の実行権を手に入れ、軍閥として奉天軍を持つに至る。張作霖はその後スポンサーを日本から欧米に鞍替えする。その後、欧米は蒋介石率いる国民党を支援。北方の張作霖率いる奉天軍と戦いを続けていた。 関東軍はこの混乱を利用して、居留民保護の名目で軍を派遣し、国民党軍と奉天軍を制圧し、一気に満州を支配下に置こうとする計画を立てていた。 しかし天皇からの発令は無く、計画は実行に移されなかった。 張作霖の扱いに手を焼いていた関東軍は、国民党軍との決戦を断念して奉天(現在の瀋陽)に戻ってきたところを、列車ごと爆殺。 あらかじめ用意しておいた中国人労働者を殺害し、爆破現場近くに放置して、事件を国民党軍のせいにする偽装工作をした。 事の真相を知り激怒した張作霖の息子・張学良は日本と対立。 南満州鉄道に対抗する路線を建設。安価な輸送単価で南満州鉄道を経営危機に至らしめた。これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り抗議するが聞き入れられず、石原莞爾(いしわら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、ついに満州の軍事占領を決意する。 1931年9月18日の夜22時すぎ、奉天(瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。駐留していた関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移る。柳条湖近くには中国軍の兵営「北大営」があり、関東軍は爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺、その後北大営を占拠。翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領した。 これがいわゆる「満州事変」である。 実際の列車爆破は関東軍の自作自演によるものである。 満州事変は中国では「九・一八事変」と呼ばれ、これを抗日運動の始まりとする意見があるそうだ。 関東軍による満州の占領の後、翌1932年の2月に東北三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)の要人が関東軍司令官を訪問。協議を経て2月18日に中国国民党政府からの分離独立宣言を発した。 国家元首は清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀。1932年3月1日に満州国の建国が宣言された。首都には長春が選ばれ、新京と改名された。 なるほどなぁ、という感じ。 歴史は単純じゃないや。 PR |
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大連太郎
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1970/06/09
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中国大連開発区のとある印刷工場でお勤め中。
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